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荒げた呼吸。
布と肉の擦れる音。
絡んだ触感。
堕落と快感。
そして、不快感。
天職、とでも言えば聞こえがいいだろうか。
とにかく、俺にはコレ以外の仕事はできないんだ。
今俺は、小さな肉屋で生計を立てている。
別に、人の下で働くのが嫌だったからとか、親父が肉屋だったからとか、そういうことじゃあ決して無い。
三十路も過ぎた男が一人でちっぽけな肉屋に納まっているのには、それなりの理由がある。
その衝動に気付いたのは、小学生の頃だったろうか。
俺の中の、しかし俺とは違う誰かが、俺を突き動かそうとする感覚。
体の奥底から、ドス黒い何かが湧き上がってくる感覚。
骨盤の辺りから脊髄を通って、じわじわと競りあがってくる「何か」。
視界が曖昧になり、意識が薄れる。
思考はできるものの、徐々に五感から隔絶されていく。
現実が遥か遠くに消え、「俺」は暗い海の底へ沈められた。
「この体は、俺のものじゃない」
ボヤッとした感覚だけが、俺に残された。
何をやっても、ダメだった。
勉強も、スポーツも、習い事も。
取り柄など、一つもなかった。
背が低くて、無口で。
学校で話すことなど、ほとんど無かった。
誰も僕のことなど、見てはいなかった。
家ではいつも、出来の良い兄と比べられていた。
そのうち、家でも話さなくなった。
誰も僕のことなど、見てはいなかった。
すべてが一変したのは、小学5年生のときだった。
―――なぁ、一生に一度のお願いだ、頼むよ。この通り!
長かった窮屈な闇夜は徐々に追いやられ、すべてが無限に続く大空へと背伸びをし始める6月。
小林はその長身をまるで携帯のように折り曲げ、幾度目かの一生に一度のお願いをしている。
のどかな昼休み。
屋上には、僕と小林以外の影はない。
そのたった2つの影さえかき消そうと、無常にも陽はチリチリと皮膚を焼いている。
「、、、暑いな、今日は。」
わざとらしく、Yシャツの襟元をパタパタとやる。
「はい!ただ今!」
小林はすぐさま身を翻し、脱兎の如く駆け抜ける。
会談を5段飛ばしで駆け下り、あっという間に見えなくなってしまった。
一人徒競争の折り返し地点は、3Fにある自販機だ。
僕は小林から相談を受けていた。
コイツから相談を受けること自体は別段珍しいことではなかったが、その内容が大変に珍しいものだった。
ダダダダダダッ!
「はぁ、はぁ、、はぁ、、、『十六夜茶』、買ってきました!」
一人徒競争をぶっちぎりで優勝した小林が、その戦利品を俺に差し出している。
「なぁ、お願いだ!俺一人じゃ無理なんだよ~。」
「、、、小林、お前の気持ちはよくわかった。俺も親友として、お前にできる限り力を貸そう。」
「ホントか!?ありがとう!恩に着るよ!」
「でもな、、、」
「ん?お、おぅ。」
「俺さ、『へーいお茶』の方が好きなんだよね。」
ダダダダダッ!
一人徒競争が、また始まった。
ふと、フェンスの外に目をやる。
転落防止用に設置されたフェンスの網目越しに、二分された世界を眺める。
上には、近くて遠い青空。
下には、閑静な住宅街。
歩行者も、車通りすらも存在しない。
神の創りし世界と、人の造りし世界。
フェンスで切り取られたこの世界は、そのどちらにも染まらない。
染まることができない。
隔絶された音のない世界に、ただ一人取り残されていた。
ときおり柔らかな風が頬を撫で、この世界に僕以外の存在を気づかせてくれる。
ダダダダダッ!
―――そうだ、もう一人いたっけ。
「ほら、『へーいお茶』だ!」
肩をはずませる小林に対して、かける言葉はもう決まっていた。
「、、、小林、おなか空いた」
ダダダダダッ!
今回のゴールは、2Fにある購買だ。
まさか、アイツが恋をするとはな。
目を細め、風と戯れる。
別に、アイツをいじめたいわけでも、ましてやお茶にこだわりがあるわけでもない。
ただ、スイカは赤い部分がなくなるまで食べつくす主義、というだけだ。
ダダダダダダダダッ!
「ヤ、、、ヤキ、ソバ、、パンだ、、、」
息も絶え絶えの小林が戻ってきた。
さすがに少し、可哀想になる。
「小林、ありがとう。からかって悪かったな。」
「そ、そうか!手伝ってくれるか!」
「あぁ、もちろんだ。でもな、」
「え?」
「コロッケパンは無かったのか?」
――― 一瞬の静寂。
「、、、ふふふふふ。あはははははははははは。」
突然笑い出す小林。
とうとうネジが跳んでしまったのだろうか。
少々、からかい過ぎたかも知れない。
「おい、小林!どうした?悪い、ちょっとからかい過ぎたよ。すまん。」
「くくくく、、、いやいや、違うんだ。絶対お前ならそうくるだろうと思ってな。ほらッ!」
後ろ手にしていた左手を僕に差し出す。
一瞬遅れて、大きな買い物袋が顔を覗かせる。
「購買で売ってる物、全種類買ってきたぜッ!」
、、、そこまでするか、フツー。
―――あるいは、コイツは大物なのかもしれない。
僕はコロッケパンを頬ばりながら、コイツの相談を受けることにした。
ときおり吹く柔らかな風を、かみ締めるように確かめながら。
廊下側の一番前から順番に、朗読が進んでいく。
このまま行くと、どうやら僕まで回って来そうもない。
僕は一人で、292ページから黙読を始めた。
――― それは、唐突に訪れる。
いつの頃からだろうか。それは人間の歴史と共に存在する。
或る人はそれを激しい落雷に形容し、また或る人はそれに甘美な果実を連想する。
果てしなく広がる楽園に、男は住んでいた。
何不自由なく、しかしながら、とりわけ幸福を感じることもなく、男は生きていた。
生きていたというより、死んでいなかった、と言ったほうが適切だろうか。
男は、平坦な人生を、何の疑いも無く、生きていた。
それは、「永遠」のための、些細な代償であった。
―――それは、唐突に訪れた。
いつものように、男は空を見上げていた。
何の目的も無く、ただ雲の流れを追っていた。
地平線に流れ行く雲が、反対の地平線からまた流れ来る様を。
「永遠」を。輪廻を。時の果てを。ただ、ぼんやりと、眺めていた。
突然、、、そう、突然、平坦な日常は、打ち破られた。
――― ポトン。
空を覆う青と白のその間から、突然、「何か」が降ってきたのだ。
大きくは無い。丁度手に収まる程度の、赤い果実。
色・形といい、赤く熟れた林檎を強く連想させる。
しかし、初めて見る果実。
奇妙なのは、空から降ってきたこと。
そこには、天を貫くような大木など、どこにも無いというのに。
得体の知れない、奇妙な果実。
明らかに怪しく、危険ではないか。
しかし、男にとって、そんなことなどどうでも良かった。
ただただ安穏と続く日常。
その中で、この果実の存在は、あまりに特異だった。
それだけで、男にとっては十分であった。
男は迷わず、それを頬張った。
そして、その果実の欠片を乱雑に咀嚼し、飲み込む。
、、、なんだ、大したことはない。
ただのどこにでもあるような果実ではないか。
何だって俺はこんなものに期待をしてしまったのだろう。
男は、果実を投げ捨てた。
何気なく、その軌道を目で追う。
果実が放物線の頂点に達し、そして、重力に導かれるように、地球の懐へと誘(いざな)われる。
一面が欠けた果実は、不規則な跳躍を繰り返し、やがて諦めたかのように這い蹲り、静止した。
そして、そこには―――
――― そこには、女がいた。
男は、雷に打たれた。体の芯まで痺れ、這い蹲り、静止した。
今まで信じてきた日常が、音を立てて崩れていくのがわかった。
たとえ全てを失ったとしても、この女が欲しい。そう思った。
何故そう思ったのかはわからない。
とても自分が正気とは思えない。
自分が自分でなくなったようだ。
指の一本でさえ思うように動かせない。
呼吸ですら、意識していないと忘れてしまいそうだ。
こんなの、自分じゃない。
男は、得体の知れない「何か」に、心を占領されていた。
もしかすると、さっきの果実のせいなのかも知れない。
単なる偶然か。神の気まぐれか。はたまた悪魔の悪戯か。
しかし、そんなことは問題ではなかった。
今、こうして、一人の哀れな男が、その毒牙にかけられている。
そこに唯一存在を許されているのは、その確固とした事実、ただそれだけだった。
男は、差し伸べられた手に、すがりついた。
まるで、天から地獄に伸びる蜘蛛の糸を掴むかのように。
そして男は、幸せを掴んだ。
――― 「幸せ」と言う名の、不幸を。
後に人は、その果実を「恋」と呼ぶようになった――――――
―――キーン、、、コーン、、、カーン、、、コーン、、、
一人で読み耽っているうちに、授業は終わってしまったようだ。
黒板の文字は、ちょうど「昨日やったところまで」進んだところで、その歩みを止めていた。
「恋、、、か。」
溜息のように呟く。
アレコレと述懐したあと、ふと、ある名前が浮かんだ。
「アイツも、恋をするんだな、、、」
ふと脳裏に浮かんだ名前。
唯一無二の親友にしてバカの代名詞。
小林陽介その人だ。
僕は決して社交的な方ではないが、それなりに優等生を演じているのため、顔は広い。
望んではいないが、浅く広い付き合いが多いのだ。
そんな中で、唯一迷うことなしに「親友」だと言い切れるのが、「小林陽介」である。
「もう、、、半年になるんだな。」
パタン、と教科書を閉じ、ガラス越しに空を這う雲に目をやった。
始まりは、それから2ヶ月くらい前だったか―――